リンゴを巡る冒険

北アイルランドの首都ベルファスト。馴染みが無ければ、そんな都市の名前など聞いたこともないだろう。「アイルランド」という国名が入っているものの、イギリスという便利なワードで一括りにしてしまえば、その一部にすぎない。「グレートブリテン及び北部アイルランド連合王国」如何にも厨二が好きそうなこの回りくどいイギリスの正式名称を、聞いたことがある人も少なくないだろう。この名称を見れば、イギリスとは、イングランド、スコットランド、ウェールズから成るグレートブリテン島と、アイルランド島北部の一画を総称した国名であることは言うまでもない。

 

一昔前のテレビ番組で「幸せ家族計画」というのがあった。一家の主である父親が、家族のために賞金をかけて様々な課題に挑戦するという内容だ。そんな古き良き時代を象徴するような平和ボケした番組のある日の課題が、全ての国旗と正式な国名を暗記しなければならないという内容だった。この番組がきっかけでイギリスの正式名称を覚えることができた。そして、「雀、百まで踊り忘れず」という諺の通り、それから十数年が経過した今でも決してその名前を忘れることはない。

 

とにかく、そんな北アイルランドの首都ベルファストの中心には、名だたるブランドが軒を連ねるこの都市随一のショッピングモール「ヴィクトリア・スクエア」がある。その二階にある店名の掲げられていない前面全てガラス張りの店舗。店名の表記がない代わりに、大きなリンゴのマークが描かれていて、しかもそのリンゴは右側が少し欠けている。そう、アップルストアだ。

 

店内中程にゆったりとした間隔でディスプレイされたMacbook Airのうちの一台を前にして、とても流暢とは言えない英語で、店員に日本語の文字はどうやって打てば良いのかと尋ねている男がいる。多分、2019年4月25日の僕だ。

 

盗難に遭いPCを失ったこの男、どうやら性懲りもなく新しいPCを物色しているようだ。しかし、どうしてまた、イギリス→ベルギー→ドイツ→ルクセンブルクとヨーロッパ周遊を続けていた男が、再びイギリスの、それも北アイルランドのような僻地のアップルストアにいるのか。日本で例えるなら、アジアを周遊している外国人が、東京を離れた後、台湾、韓国、中国と周り、その後北海道に戻ってきてMacbookを探しているようなものだ。別に北海道を悪くいうつもりはない。

 

もしも貴方がこのブログのヘビーリーダーなら、きっと心のどこかで、「今回はいつ時計の針を戻すのだろう」と全く意味のない期待に胸を膨らませているはずだ。そんな期待を裏切るわけにはいかない。さて、それでは時計の針を戻してみよう。

 

* * *

 

2019年4月10日。ベルギーの首都ブリュッセル。盗難に遭った翌日、僕は、大使館や警察を一通り駆け回った後、アップルストアを訪れた。閉店間際で、心なしか動きが鈍くなっている自動ドアをこじ開け、アップルウォッチやiPadには目もくれず、Macbookがディスプレイされているデスクへと向かう。キーボードを見た瞬間に、後頭部をピコピコハンマーで殴られたような軽痛が走った。

 

「だめだ、AとQの位置が反対だ」

 

AとQの位置だけではない、その他のプライマリーな文字キーの位置も所々おかしい。記号キーの位置が少し違うのくらいは許せた。でも、Aはだめだ。百歩譲って、子音ならまだ許せる。でも、Aはだめだ。母音のキーは、ひらがなをタイプする時に、五分の一の確率でタイプする。

 

調べてみると、フレンチキーボードは、そのような仕様らしい。ちなみに説明しておくと、ベルギーでは、大きく分けて、フランス語とオランダ語が日常的に使われている。その中でも、北部はオランダ語色が強く、南部はフランス語色が強いと、ホステルに泊まっていたオランダ人が教えてくれた。

 

一応店員に、JISキーボード(日本仕様)はないにしろ、USキーボード(アメリカ仕様)の在庫ならあるかもしれないと思い尋ねてみたが、扱っていないようだ。その代わりに、ダッチキーボード(オランダ仕様)ならあると言って持ってきてくれた。もちろん記号キー等の配列に少し差異は見られるものの、アルファベット26文字のキーの配列は、普段日本で見るものと同じだった。これなら許容範囲だと思ったが、フレンチキーボードで一度折られている僕の心は、「本当にこんな未知の言語仕様のキーボードのPCを買って良いのか?何か落とし穴がある気がする。何か不具合があったらどうしよう」という疑心暗鬼な思惑で溢れていた。

 

少し考えてから、昨日の今日だ、少し焦り過ぎたと踏み留まった。やっぱりJISキーボードか、最悪でもUSキーボードを買いたい。とはいえ、ヨーロッパでJISキーボードが購入できる筈もなく、実質、僕に残された選択肢はUSキーボード以外に無かった。日本のアマゾンでJISキーボードを買って、こっちに配送してもらうという手も無くはなかったが、ただただ面倒だった。

 

そして、USキーボードが買える→英語圏の国という単純明快な思考にたどり着いた。ヨーロッパの英語圏で、まず最初に頭に浮かぶのは、もちろんイギリスだったが、ついこの間まで住んでいた国にまた引き返すのかと思うと全く気分が乗らなかった。別にイギリスが嫌いという訳ではなく。

 

そこで思い付いたのがアイルランドだった。アイルランドならまだ行ったことがなく、引き返すという感覚ではなかったので、そんなに悪い気もしなかった。いつか近いうちにアイルランドを挟もうと決めた。しかし、調べているうちにアイルランドの首都ダブリンにアップルストアが無いという事実が発覚した。なんでやねんと思った。もしかしたら口をついて飛び出していたかもしれない。どうせ買うなら、リセラーやリテイラーじゃなくて、ディーラーから直接買いたいという、此の期に及んでの最高級なワガママを発揮していた僕には、最低のバッドニュースだった。大体の国の首都になら、アップルストアくらいあるだろうという完全なる希望的観測。クソっ、と思った僕は、更に調査を続け、ダブリンからバスで二時間弱の北アイルランドの首都ベルファストになら、アップルストアが存在しているという情報を入手した。結局イギリス戻るんかいっ、と自らツッコミを入れたのは言うまでもない。

 

* * *

 

店員も少し困った顔をしているのが見て取れる。こんなところまで来て日本語の文字の打ち方を訊いてくる客なんてそう多くはないだろう。少しいじってみた後、諦めるようにインターネットで日本語の文字の打ち方を検索し始めた。調べ終わった店員が、男に自慢げにひらがなを打って見せた。

 

* * *

 

日本語の打ち方さえわかればこっちのものだ。インターネットで調べていたUSキーボードとは違い、enterキーが縦長で少し小さく、押しにくそうなのが多少気になったが、それくらいは才能と慣れでカバーできる。最新のアップルのキーボードはそうなのだろうと思った。

 

会計の際に、雑談がてら、なんでenterキーは昔と比べて小さくなったのかと、携帯でUSキーボードの写真を見せながら尋ねてみた。

 

「ん?前からこの大きさだけど?それ、どこか違う国のキーボードじゃない?」

 

と軽くあしらわれた。後から調べてみてわかったことだ。僕が買ったMacbookは、なんとUSキーボードではなかった。そう、その名も、

 

「U K キ ー ボ ー ド」

 

UKでUKキーボードを買う。考えてみれば至極当然のことだ。「日本で寿司を食べる」くらい当たり前の表現だ。英語圏の国のキーボードの仕様は全てUSキーボードだと思い込んでいた。イギリスで4ヶ月間生活しても尚、アメリカを中心に英語圏が回っていると信じ込んでしまっていた。

 

という訳で、今僕はまさに、そのenterキーが少し小さいUKキーボードを使って、この物語を綴っているところだ。恐らく、僕がこの新しいキーボードに慣れる頃には、小さいenterキーに順応するように、右手の小指が少しだけ長くなっている筈だ。かつて、首の長いキリンだけが生き残り、子孫を残すことができたように。

 

hiroyuki fukuda